のぼうの城

平成21年5月中旬

和田 竜さんの小説「のぼうの城」を読み、改めて忍城祉を訪ねました。
忍城の長い歴史からすれば、この小説で扱っている長親の時代はほんの僅か期間なのですが、小説のおもしろさから、この城にそのイメージを求めてしまいます。
現在、忍城址は行田市の郷土博物館になっていて三階櫓が復元?されて展示室・展望台になっています。
ここは地名が本丸となっているように、忍城の本丸があったところだそうです。
守るに易く、攻めるに難しい、周囲を幾重もの濠(ほり)に囲まれて、浮城といわれた忍城ですが、その雰囲気を出そうと博物館の周囲にはさまざまな設え(しつらえ)が施されています。
濠に囲まれた曲輪という地形で、城は周囲を土塁で守られていたそうです。博物館の南側にその土塁の遺構が一部残されています。
この曲輪を橋で結び、一つ一つの曲輪を孤立させることで攻めにくい城としていたのでしょう。現状からは想像が難しいのですが、この土塁に立ってみると、ここから橋を渡って隣の曲輪に移動したのかと周囲を見渡してしまいます。
博物館からアートギャラリーへの通路には濠が作られ、橋が架けられています。浮城といわれた当時はこのような様子だったのでしょう。
この行田市は荒川と利根川に挟まれた地形で、現在のように治水が進んでいなかった頃には、水とのつながりがもっと近かったのだろうと想像されます。
忍城にあったという梵鐘が、博物館の構内に展示されています。木々に囲まれたこのような建造物を見ていると、時代をタイムトリップしてしまいそうです。
博物館で譲っていただいた「忍城今昔地図」を見ると、現在の行田市役所など多くのところが濠の中であったことがわかります。
小説の中で(史実に基づいているそうですが)石田三成の軍がこの城を攻めあぐんだ様子がわかるような構えです。
清善寺
小説の中にこの寺の六代目住僧「明嶺」が出てきます。独特のキャラクタで長親も頭が上がらなかったように描かれていますが、その時代の雰囲気が伝わってくる人物でした。
現在の清善寺は門の脇に駐車場を備え、地域の人々の菩提寺として墓参りなどの参拝者が多い寺のようです。
高源寺
成田家臣は、北条方として豊臣秀吉による関東攻めに対して、石田三成の軍と壮絶な戦いをしました。その中でも勇猛果敢な働きをしたのは正木丹波守利英です。小田原城が落ち、この忍城も明け渡し成田家が移封した際に、利英はこの地に留まり、戦で逝った人々を弔ったそうです。
この寺はその丹波が開基したと伝えられています。
高源寺には正木丹波守利英も眠っています。
戦で亡くなった人々の慰霊碑が建てられ、丹波を偲ぶ人々が多いようで、石碑も建てられています。

この寺は地図ではわかりやすいのですが、道路を走っていると通り過ぎてしまうほど質素な入り口です。入ってすぐのところに数台の駐車スペースがありました。
さきたま古墳から三階櫓を見る
石田三成はこの丸墓山に陣を張り、忍城の水攻めを指揮したそうです。
写真の真ん中にちょっと飛び出して見えるのが、三階櫓です。今は建物が一面に建てられていますが、戦のあった当時は原野と川筋が広がるところだったのでしょう。
二十数キロの土塁を築き、忍城の水攻めをした石田三成の軍は、この広い大地に大金を使って多くの人々を集め、短期間で土塁を築かせたました。その財力と権力に驚かされます。いかに秀吉がその権勢を誇りたかったかがわかるような戦略です。
当時築かれた土塁の一部
丸墓山に至る通路が、当時築かれた土塁の一部だと言われています。高さはそれほどでもありませんが、幅の広い、しっかりと水を食い止めることができそうな造りです。このような土塁を延々と築かせた戦の大きさに驚かされました。